2008/08
社会インフラ ―電気―君川 治





日本最初のアーク灯設置場所(銀座)

電燈供給発祥の地(日本橋茅場町)


浅草発電所(テプコ浅草館)

エレベーターの設置された凌雲閣(テプコ浅草館)

京都蹴上発電所

琵琶湖疎水記念館

水力発電発祥の地碑
 今の社会生活は電気によって維持されている。電気が停電した状態で何が起こるかを想像すると、先ず電車が止まって通勤・通学の足が奪われる。交通信号が止まって道路が渋滞し混乱を生じる。家庭の冷蔵庫が動かなくなって食料品が腐ってしまい、同様にスーパーやコンビニの冷蔵・冷凍ショウケースが働かず生鮮食料品が腐ってしまう。金融機関のコンピュータが止まって経済活動が混乱し、ATMが動かずお金にも不自由する。……このような事にならないように枢要な装置には無停電電源が配備されているが、停電が長く続けば大混乱に陥るだろう。
 電気に関するエポックメーキングな発明・発見を羅列してみると、1799年ヴォルタの電池発見、1820年アラゴの電磁石の発明、1821年デーヴィーのアーク灯の発明、1831年ファラデーの電磁誘導の発見、1835年モールスの電信機の発明、1840年アームストロングの水力発電機の発明、1866年ジーメンスの発電機の改良、1876年ベルの電話機発明、1879年エジソン炭素電球の発明、1881年エジソン火力発電所の建設、1896年マルコニー無線電信の発明、1904年フレミング真空管の発明と20世紀の電気の時代へと続いていく。日本も明治時代に電気エネルギーの利用を急速に立ち上げるが、その素地は江戸時代にあり電気には非常に関心の強い人種である。
 電気が日本の社会に登場したのは明治11年3月25日(1878年)、中央電信所開所式でアーク灯を点灯したのが最初である。工部大学校教授エアトンの指導で学生であった藤岡市助、中野初子、浅野応輔らが電源の電池を並べて点灯したもので、短い時間のデモンストレーションであったが伊藤博文工部卿を始め参会者の驚きは非常に大きかったと伝えられている。
 次は電灯事業を商業化すべく設立準備中の東京電灯が明治15年7月(1882年)に銀座通りに設置したデモ用の2000燭光のアーク灯である。この電源は直流発電機である。電燈供給用の最初の発電所は明治20年(1887年)、エジソン式25kw直流発電機を備え日本橋に設置された。どちらも発祥の地の碑が設置されている。アメリカから遅れること6年である。

 鉄道や通信、水道が政府の直轄工事からスタートしたのに対し、電気事業は最初から民間事業である。電燈は当時、未だ贅沢品と考えられており社会インフラと認められていなかったからだろう。しかし事業家たちの電気への関心は強く、東京電燈の設立が明治16年(1883年)、その後明治20年に神戸電燈、明治21年に大阪電燈、京都電燈、明治22年に名古屋電燈、横浜中央電燈、明治23年に神奈川電燈が設立され、全国各地に電燈会社が設立されていく。直流火力発電所では電力供給範囲が狭いため、東京の例をみると茅場町、京橋、麹町、半蔵門、浅草など街のあちこちに発電所が建設された。
 小規模発電所を統合した交流方式で電力を供給する最初の火力発電所は、明治31年に完成した浅草中央発電所である。浅草繁華街の何処に設立されたのかと調べてみると、蔵前橋北側の隅田川沿いにある現在の東京電力蔵前変電所がその場所であるとわかったが、往時の面影は全くない。
 この発電所に使用した発電機はドイツのアルゲマイネ社の50Hz発電機であり、これが関東以北の標準電源周波数となったと言われている。これらの事業を推進したのが東京帝国大学教授を辞して東京電燈技師長となった藤岡市助であった。藤岡市助は岩国藩士の出身で工部大学校電信科の第3期生である。
 東京電燈に5年遅れて設立された大阪電燈は、小倉藩士の出身で工部大学電信科を卒業後、アメリカに留学していた岩垂邦彦を呼び戻して技師長とした。彼は配電ロスの少ない交流発電方式を当初から採用して大阪西道頓堀に発電所を建設した。
 西道頓堀発電所はアメリカのトムソン・ハウストン社製の60Hz交流発電機を採用し、これが関西以西の標準電源周波数となった。交流発電機の採用は東京電燈より9年早い明治22年である。岩垂邦彦は、その後電話機製造の日本電気を創設した先駆者でもある。
 浅草かっぱ橋本通りの東京電力のテプコ浅草館に行くと、浅草蔵前発電所やお化け煙突で有名になった千住火力発電所、浅草凌雲閣に設置された我が国最初のエレベーターなどについての説明がある。

 我が国最初の事業用水力発電所は京都の蹴上発電所である。明治維新により首都が東京になって地盤沈下の激しい京都を復興するために企画されたのが琵琶湖疎水事業であった。この疎水は京都に水道水、灌漑用水を供給すると共に淀川から琵琶湖までの水上交通路として計画された。
 計画推進は工部大学校第1期卒業の若手技師田辺朔朗である。この疎水事業を推進中にアメリカで水力を利用した発電所があると知った田辺はアメリカまで調査に出向き、疏水の水を利用した発電所を建設した。1891年に完成した蹴上発電所は80kwエジソン直流発電機2台を使用した。
 その後、交流発電機も使用し、電灯用は交流、京都市内の工場に供給する動力用と市内鉄道用は直流と使い分けている。この発電所はその後も拡張工事を進め、今も関西電力の現役発電所である。

 仙台に日本最初の水力発電所があるとの情報を聞いて早速調べてみた。仙台市青葉区三居沢に「三居沢電気百年館」があった。現在は東北電力の三居沢発電所となっているこの発電所は1888年の完成で、蹴上発電所より3年先輩である。1988年に東北電力が百年記念館を建設し、発電所建設の経緯などを説明している。

 ―― 一関藩士であった菅克復は、明治維新になって武士の失業救済のために私財を投じて綿織の機器を購入して明治7年に仙台市北三番丁に機織場を設立し、明治16年(1883)に宮城紡績株式会社を創設した。東京・銀座にアーク灯が点ったのを知った菅克復は早速これを調べ、発電機を購入し、紡績用の水車に発電機を取り付けて工場の照明用電燈とした。アーク灯1基、白熱電灯50灯を点灯したのが1888年7月1日である。当時の発電機は三吉電機工場製5kw直流発電機で、設計は工部大学校の藤岡市助である。――

 電気百年館の隣に発電所がある。現在の発電所建屋は下見板の瀟洒な木造建築で、明治42年に完成したものだ。発電機は1000kwで昭和53年より自動化され、東北電力錦町制御所より遠隔制御が行われている。今年が丁度設立120年の節目の年に当たる。

 日本の電気事業は民間会社により始まり、多くの電燈会社が設立されて競争が激化してM&Aにより統合を繰り返し東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5大電力体制となる。戦時体制下では国策会社日本発送電に統合され、戦後は民間会社ではあるものの電気事業法により規制・保護された全国10会社体制となっている。社会インフラを担う会社として最も重要な社会的責務を負っている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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